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hammām ハンマーム حمّام‎ 入浴シーンあります [トルコ]

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ハンマームをやってもらいました。世界各国での入浴写真を掲載してきましたが、ここは長編です。
ハンマーム(アラビア語: حمّام‎ , hammām)は、中東全域に広く見られる伝統的な公衆浴場のことである。 語源は「温める」「熱する」を意味するアラビア語の動詞「ハンマ」に由来する。トルコ語では「ハマム (もしくはハマーム、hamam)」という。
ホテルのフロントで5,000円払いました。日本円で。
チップで2トルコリラ渡して、腰布を付けて、浴室に向かう。なお、腰布を纏うことは入浴のマナーとして義務付けられている。また、時代に関係なく庶民の女性は何も纏わずに入浴するのが通例となっているが、ここはホテルなので女性は水着着用。
浴槽からのぼった蒸気で汗を出し、がたいのいいお父さんに最初に頭をごしごし洗われて、次に大理石の温かいベッド?に移動しあかすりやマッサージ、そしてあわあわに泡立てた石鹸で全身を洗ってもらう。
「スワッテ」
「アオムケ」
「トレタ」いわゆるあかすりでの垢ね。とにかくゴシゴシと”削られ”ます。そりゃぁ皮膚まで削れるよ。気持ちいいと言えば気持ちいいけど、胸は赤くなるまでこすられたので痛いぞ。
では動画をどうぞ。ハンマームは約20分間でしたが3分に編集してあります。

Copyright[コピーライト]2013-2014長男は荷物

中東・イスラーム世界でのハンマームは、かつてのローマ帝国の東南部を征服した際に、ローマ人の浴場文化を引き継ぎ発展させたと考えられている。いわゆるテルマエ・ロマエですね。
ハディースは浴場に対して否定的な立場を取っていると考えられているが、常に心とともに身体を清潔に保つことを重んじるイスラームの教えに浴場の目的が合致するために、公衆浴場が一般に急速に普及していった側面もある。ハディース(الحديث , 言行録)とは、イスラム教の預言者ムハンマドの言行録。クルアーンがムハンマドへの啓示というかたちで天使を通して神が語った言葉とされるのに対して、ハディースはムハンマド自身が日常生活の中で語った言葉やその行動についての証言をまとめたものである。

ハンマームはローマ時代のテルマエと同じで、脱衣所で体を休める客は近くの店から取り寄せたコーヒーや茶、水タバコなどを味わい、あるいは果物を食べたり、他の客との会話を楽しんだ。いわゆる社交場ですね。また、かつては各街区に必ずモスクや市場(スーク、バザール)とともにハンマームが存在し、多くのハンマームがワクフ(寄進財産)として維持建設されてきた。ハンマームの数の推移はその都市の盛衰を反映し、都市人口と発展の度合いを推定する根拠ともなる。ここが、ローマと違い、権力者が力の象徴として建設させたわけではないようです。

シルクロードの交易で栄えたイスラーム。キャラバン隊が長旅での汚れを落とす目的でも、ハンマームが作られたのではないでしょうか。病気などを都市に持ち込ませないように、衛生上の配慮も兼ねていると思います。
そもそも気持ちいいしね。

映画「テルマエ・ロマエ」を見ましたが、出オチといいますか、ウォシュレットといい銭湯といい、内容は日本の公衆文化あるある、でしたよね。Ⅱはおもしろいのだろうか。

カッパドキア Kapadokya ギョレメ国立公園 Göreme Milli Parklar [トルコ]

トルコから帰国して、1年と3か月が経過してしまいました。様々出来事が有ったのですが時の経過は早いものです。
折しも、ISIS による邦人の拉致誘拐が起きているさ中でのトルコ編再開です。
決してバカにしているわけではありません、しかしイスラム教は日本人からするとやっかい。歴史が浅いからというのは短絡的かもしれませんが、イスラム教の教義がストレートに現代に繋がっているので、今この時代、この時にもコーランが唯一無二の絶対であり、それ以外は無し。馬屋で生まれた人が神がかった宗教や、インド奥地の王様の息子が悟った宗教が、罪とか煩悩といった人の内在と対峙することからストーリーが始まるスペクタルと違って、いきなりコーランに帰依。
ムハンマドがどうチャネリングしたかどうか。7世紀といえば聖徳太子が遣唐使を送り出した時代である。そのころ中近東で何が起こっていたかというと、ビザンツ帝国とササン朝ペルシアがせめぎ合った結果、双方とも衰退し権力の空洞化、無秩序。しかし場所はシルクロードの要所。無秩序じゃ商売にならない。帝国では無い新しい共同体を作るという社会改革が、イスラム発祥のバックボーンとなっているのではないかな。
トルコはかつて偉大な指導者が国の礎を築いたので、政教分離が国是ともなっている。しかし、イスラム界隈ではトルコはイスラム国家では無いとしている。

長くなりますので止めます。写真ダダ貼りしていきます。

トルコを旅行したのは、2013年10月9日から。この日は10月14日。朝の6時にモーニングコールで起こされて
ホテルはRixos Hotels Konya リソス・ホテル
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車で3時間ほど走って
スルタンハン ・ケルヴァンサライ Kervansaray
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中は特に何も無い。あーそう、で終わり。中央アナトリアが貿易路として栄えた時代、隊商の宿泊所として建てられたそうだ。隊商、そうキャラバンね、元はペルシャ語だったのですね。よくわかりませんが、13世紀ころの要塞・宿舎・礼拝堂。
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カッパドキアへ行くツアーの休憩所だ。悪口書いてすまん
キャラバンからまた車で2時間走って
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ギョレメ国立公園 Göreme Milli Parklar
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奇岩群と古代ローマ時代にギリシア人のキリスト教徒によって建設された地下都市がある。
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St. Catherine Chapel 聖カタリナまたはアレクサンドリアのカタリナ。聖大致命女エカテリナとして敬われ、ローマ・カトリックでは伝統的に『十四救難聖人』の一人とされている。ジャンヌ・ダルクと話したとされる聖人の一人だそうだ。
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内部は撮影禁止
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(勝手に転載)
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お昼ごはん。洞窟レストラン。嫌な予感がする。洞窟じゃない普通の方がいい
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鱒の塩焼き定食
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味?見たままだよ。嫌な予感が当たった。鯖といい、トルコへ行くときはインスタントみそ汁と七味唐辛子を持っていくべし

トイレ休憩で、ツアーお決まりのお土産物屋に。ここはトルコ石(ターコイズ)
AGAD JEWELLERY だそうだ
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石が1個付いた指輪が3万円くらいだった。トルコからトルコ石の産出はない(本当)だからわざわざここで買う必要は無い。相場も分からないし。密林の「Amazon」を見てみましたが、いかにも顔料を混ぜた代物がゴロゴロ(石だけに)ありました

岩窟城ウチヒサル Uchisar
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人の写真を勝手に転載してあれだが、裏側はこんなんだって
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家が多い。当たり前です、今時岩山に住みませんよ
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カイマクルの地下都市 Kaymaklı
入り口
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紀元前から存在し、ローマ帝国の迫害を逃れてこの地に辿り着いた初期キリスト教徒たちが隠れ住み、何世紀もかかって掘り進められて地下8層、2万人が暮らしたと
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人力で掘ったことは、さぞ大変だったろうと苦労は偲ばれるけど、観光は全くもって面白くない
出口で露天のおじさんから、ピスタチオとか干しアンズ、カボチャの種とか4袋選んで1,000円(日本円札)で買いました

ユルギュップ Zelve Open Air Museum
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ここは外から写真を1枚撮っただけ

いよいよカッパドキア、カッパドキアしてます
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ラクダ岩
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三姉妹
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夕日の名所ローズバレー
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ここに来て、日没まで間があったのでトルココーヒーを。5TL。ご存知の方もいらっしゃるでしょう、占いができるとか。コーヒー粉にお湯を注いだだけ。私は苦手なのです、甘酒、濁り酒、マッコリ、アサリの砂、とにかくザラザラしたものが
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日没
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フォトショで少し修正しました。日没じゃお腹はふくれんよ
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洞窟ホテル
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雰囲気いいですね

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洞窟ホテルではありません。そっちはオプション。
こっちはDOUBLETREE BY HILTON AVANOS CAPADOCIA
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赤と白を飲んだらしい。2本もねぇ。しょうがない、ごはんが不味い。しょうがなくはないか。美味しいのは生野菜と果物だけ、ワインはまぁまぁ
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シズカちゃんの入浴シーン。のび太さんのエッティ
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バスルームの壁の扉を開くとベッドルーム越しに外が見えます。おしゃれですね、一人ですけど
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長い一日でした
しかし、翌日、さらに試練が続く

※ここカッパドキアで、9月9日に日本人大学生2人が死傷するという被害にあいしました。ツアーなので無理かもしれないと思っていましたが、寄れるか聞いてみましたが押せ押せのスケジュールだったので無理でした。どうぞ、やすらかに

2013年10月14日

宗教についてあれこれ、面白おかしく書こうかと、しかし邦人の拉致誘拐でそんな雰囲気一気に吹き飛びました。拉致誘拐は犯罪です。国として、国民として無事、無条件に2人の解放を強く望む
冒頭でも書きましたが、商売の秩序のために宗教を興したのも一つの理由、というのが私の勝手な持論です。アラビアンナイトしかり、まずは大ホラ吹っかけてくるのがアラビア商人だ。どこで値切る(落としどころ)を持って行くかだと思う。ヤツらは客を大事にするよ、粘り強く(諦めないで)交渉するしかない

※追記
ISIS をイスラム教から読み解こうとしましたが、大きな間違いでした。ISIS は国家を標榜していますが、ただの武装犯罪者組織です。イスラム教と関連付けることはモスリムの人たちへの侮辱だと思う。
再度、自己責任論が問われていますが、拉致誘拐された同胞を助けることは国家、国民の義務である。自己責任だから放置しても構わないという考えは、組織保身である。お前が勝手にしたことだから腹を切れということか。時代錯誤甚だしい。
では、国民として何ができるか?それはISIS を認めないこと、プロバカンダに乗せられないこと、恐怖には意思を持って対抗することだと私は思います

カッパドキア Kapadokya Balloons 熱気球 [トルコ]

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朝だ。夜では無い、5時。モーニングコールは4時30分
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バンが迎えに

ローズバレーを熱気球で上がります
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上空では10℃でした
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乾杯の後、撤収。無線で先回りしたトレーラが下で待つ。上手いパイロットはトレーラーに着陸。
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日の出が美しく、カラフルないくつもの風船が漂う光景は宇宙に浮いているようでした。バーナーを使っていなければ無音。これだけの数の気球が朝焼けの中、飛び立つ光景は他には無いんじゃないかな
ちなみに数えたら86

2013年10月15日

神になった建国の父 アタテュルク廟 Anıtkabir [トルコ]

ムスタファ・ケマル・アタテュルク Mustafa Kemal Atatürk, 1881年3月12日 - 1938年11月10日が眠る。1953年に完成
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死して今なお現在に至るまで国父としてトルコ国民の深い敬愛を受け続けている。アタテュルクは「父なるトルコ人」。
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両側にライオンの像が並ぶ参道「ライオン・ロード」
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陸・海・空軍から選ばれた、いわゆるイケメンが警備に当たるそうだ
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2013年10月15日

建国の父が眠る丘からトルコの首都アンカラを臨む
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眠ってる場合じゃないよ。私たちも「怖い」と言って目を伏せてはいけない

500記事

アンカラ城 Ankara Kalesi [トルコ]

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トルコの首都アンカラにある城跡。ごつごつとした溶岩が突起する丘の上に建つこの城は、古代ローマ帝国時代にガラテヤ人によって建築が始められ、7世紀に東ローマ皇帝ヘラクレイオス1世により、アラブ人の侵攻に備えて内側の城壁を築き、ミハイル2世の時代に外側の城壁が増築された。その後、ビザンチン帝国とセルジュク朝によって修復や増築が行われています。城の位置する地域はアンカラで最も古い地区で、城壁内には伝統的な建造物が数多く見られ、緑も豊かで心休まるところです。、、、だそうだ
城壁内には伝統的、、、で、この辺りは市街地から離れていてガラが悪いらしい。マイクロバスからさっさと降りて、写真を撮って、さっさと撤収しました。特に見どころも無いようです。
お城の近くの路上で羊の解体を見かけました(注意:マウスオーバーで画像が表示されます)

私が撮った写真じゃないですけどね、こんな雰囲気でした。地元では日常の光景なのでしょう。心休まるか!
※追記
2013年10月15日は「イード・アル=アドハー」の祝日だそうだ。イブラーヒーム(アブラハム)が進んで息子のイスマーイール(イシュマエル)をアッラーフへの犠牲として捧げた事を世界的に記念する日。この日は世界中のムスリムによるサウジアラビアのメッカへの毎年恒例の巡礼においてアラファト山を降りる日の翌日にあたり、すなわちハッジの最終日である。また、巡礼に参加していないムスリムも動物を1匹生贄として捧げ、この日を祝う。路上で羊を屠っていたのには理由があったのですね。

※不定期連載「心のコラム」
日本でも「解体ショー」とかでお客さんの前でマグロをサバいたりしますが、私は苦手です。反って食欲落ちます。あと、活造りも。食べ物といっても命があったわけですから、見世物にしたり玩んだりしていいのだろうか。イスラムでは祈りを捧げてから屠るのに。大きなお世話ですかね。

トルコツアー最後のホテル ESENBOGA AIRPORT HOTEL トリップアドバイザー33点
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暗い、照明が点いていない
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内装は豪華なのですが
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部屋も疲れた感じ
トリップアドバイザーの点数の通り。建った当時はまっとうな5つ星のホテルだったのでしょう。大箱のホテルは経営が厳しいのかもしれません。ごはんも美味しくない。ツアー最後なので、いい(マシな)ホテルに泊まりたかった

2013年10月15日

親日国トルコ
義理人情を重んじる国民性が故に、親日国については手放しで歓迎してしまう。親日の理由として、資金提供・技術提供し国際貢献している、にもかかわらず内政干渉をしない、だそうだ。未開のアフリカは知らんが、韓国を除いて、世界のほとんどが親日国。中国でさえ「どちらかといえば好き」を入れると、過半数が日本が好き。韓国逝ってよし
先般発生したカルト・テロ組織ISIL による邦人拉致・誘拐について、同じく親日国ヨルダンを巻き込んだ最悪な結果となりました。
jordan.jpg戦う国王アブドゥッラー2世
結果、失敗ということで表には出ませんが、トルコ政府は邦人解放に尽力してくれた。大変ありがたいことです。
この逸話をご存知だろうか。30年前、1985年イランへ侵攻したイラク軍との、“イラ・イラ戦争”のさなかのこと。とんでもバカテロ組織ISIL も、この戦争を根にすると思うとやるせない
33f956f8fb5219c3880b7d1a2427dca4_XL.jpg禁じ手の毒ガス使った陰惨な戦争
イラクの大統領サダム・フセインは、戦争の長期化にしびれをきらし、「3月29日をタイムリミットとして、この期限以降にテヘラン上空を飛ぶ航空機は、軍用機であろうと民間航空機であろうと、いかなる国の機体、すべて撃墜する」と布告した。ドイツやイタリア人は自国の航空会社で次つぎに退去していく、どこの航空機も自国民優先なのだ。日本外務省は日本航空に緊急の救援機派遣を求めたが、「安全が保証されていない」ことを理由に尻込みする。このような中、トルコ大使は「ただちに本国に救援機を派遣させましょう。トルコ人ならだれもが、エルトゥールル号の遭難の際に受けた恩義を知っています。ご恩返しをさせていただきましょうとも」。トルコ航空は、すかさず2機の航空機をテヘラン空港へ飛ばし、215名の日本人全員を乗せ、タイムリミットぎりぎりにトルコ領空へとって返した。私はこの手の話に弱い、涙腺崩壊。
前述、親日の理由として、金は出すけど口(手も)は出さない。しかし、この国際貢献のあり方も、時代に合わなくなってきているのでは。親日国の中にも独裁制を戴く政権があるのも事実。日本は世界に向けて強く発言すべき。日本の良心、日本の価値観は世界を良い方向に動かすと思う。
2013年トルコで反政府運動がオリンピック候補地立候補を気に起こったことを覚えていますか(結果2020年東京オモテナシ)。国是の世俗主義「政教分離」を捨てイスラム価値観への回帰、大統領に強大な権限の付与(2014年8月大統領に就任)、強権主義的独裁者エルドアン大統領に対する反政権デモでした。「男女不平等は当たり前」と言ってのける人物
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例えば「白い宮殿」大統領官邸(ボーリング場があるとか、ないとか)
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同官邸内でのエルドアン大統領(右)と、パレスチナ自治政府のアッバス議長(左)と記念撮影
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後ろに立つのはオスマン帝国からの甲冑の衛兵。アベンジャーズのコスプレではない。余談だが日本政府、他主要国はパレスチナ自治政府を国として認めていない
いずれにしろ、常軌から外れているのではないか
そして情報統制。下図はサイトがブロックされた時のパソコン画面
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トルコがネット規制に積極的な背景には、政権の元閣僚による汚職事件の捜査に関する情報の隠ぺいや、デモの呼びかけに使われたSNS の遮断。私も、ESENBOGA AIRPORT HOTEL から某サイトにアクセスできませんでした。
私は見えなものが怖い。もののけ、放射能、そして権力。親日だからこそ見て見ぬ振りしてはいけない。内政干渉上等!権力の暴走でトルコという国が混乱、あるいは偏狭することは避けなければならない。なぜなら、トルコはヨーロッパとアジアや中東との仲介役として重要な存在なのだから

※おまけ
日本もネット規制があります、自殺サイトです。自殺は絶対ダメです、お願いします
私がトルコでアクセス遮断されたサイトとは違法mp3 ダウンロード。てへぺろ

トプカプ宮殿 Topkapı Sarayı レストラン コンヤル Konyali Lokantasi [トルコ]

15世紀中頃から19世紀中頃までオスマン帝国の君主が居住した宮殿。イスタンブル旧市街のある半島の先端部分、三方をボスポラス海峡とマルマラ海、金角湾に囲まれた丘に位置する。世界遺産
メフメト2世が、1460年代頃造営を開始し、1478年頃までに完成した。
トプカプ宮殿は、大きな建物を持たず比較的小さな建物と部屋が連なり、また数多くの庭園と離れ(キョシュク。キオスクの語源)を持つ建造物群である。このことから、トルコ人の中央アジアの遊牧民的な伝統に基づいた宮殿である、と説明されることもある。wiki より
というわけでシェーンブルン宮殿やベルサイユ宮殿のような大広間があるわけでなく、窮屈で観光にはそれほど面白くない。大広間とかないし。イスラムでは男女ペアを組んでの舞踏はあり得ないし、鑑賞のためのオペラハウスも無い。
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ピンクは、わた菓子
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宮殿の正門「帝王の門」(バーブ・ヒュマーユーン)
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いつもにも増してすごい人出。イスラムの祝日だそうで。
P1040439.JPGチケット売り場
外廷の正門「挨拶の門」(バービュッセラーム)
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セキュリティを通ります
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宮殿内の内装(すまん、どこがどこだか失念)
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宝物館
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目玉の宝物、エメラルド「トプカプの短剣」と86カラット「スプーン職人のダイヤモンド」
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建物の外から盗み撮り
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幸福の門(バービュッサーデ)
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内廷の中庭とバグダッド・キョシュク
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ハレム harem 入場は別料金
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どこを撮っても、人が映り込む
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*印は他人の写真を勝手に転載しました

オスマン帝国 دولتِ عليۀ عثمانيه
テュルク系(トルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族帝国で、始祖オスマン1世がアナトリアに勢力を確立し新政権の王位についたとされる1299年を建国とする。15世紀には東ローマ帝国を滅ぼしてその首都であったコンスタンティノポリスを征服、この都市をイスタンブルと称し自らの首都とした。
17世紀の最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリー、チェコスロヴァキアに至る広大な領域に及んだ。
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テュルク系とは、紀元は突厥(とつくつ)といい、中央ユーラシアから唐あたりまでの遊牧系民族の巨大国家だった。8世紀に唐、吐蕃、ウイグルに追われ、後のウイグル帝国の崩壊で西に移動。11世紀にセルジューク朝を興す。セルジューク朝をマムルーク朝が、そして1517年にマムルーク朝を滅ぼし、世界帝国たるオスマン帝国になる。トルコはイスラムですが、アラブじゃないのですよ。また、ペルシャ人とも違う。〇〇スタンと呼ばれる国々がテュルク系です。
ここコンスタンティノープルは、東ローマ帝国側が金角湾に渡した太い鎖によって封鎖されていた。オスマン帝国最強部隊イエニチェリの活躍と、陸地に油を塗った木の道を造り、それを使って陸を越え70隻もの船を金角湾に移す作戦「オスマン艦隊の山越え」と呼ばれるこの奇策で陥落した。1453年5月29日 その後、東ローマ帝国滅亡
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70隻の軍船の山越えの真偽はさておき、ちなみに東ローマ帝国側戦力7,000人、オスマン帝国が8万とも20万人とも言われている。
イスラムといえばハレム harem ですが、日本の大奥に似ているとはいえ、奴隷も多くいたようです。オスマン帝国においてもハレムはきわめて大規模なものが存在し、その数は最盛期には1000人を越えたとされる。1924年トルコ大国民議会の代表であったケマル・アタテュルクによる革命によってオスマン帝権は完全に消滅した。wiki より

お待たせ、お昼ごはんです
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Konyali Lokantasi Topkapi Palace
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写真ダダ貼りで申し訳ない。理由は、本当に何食ってもおいしくない。
トリップアドバイザー981位イスタンブールのレストラン 11,240件中 、納得の数字です
ロケーション優先です。そして高い(ツアーなので旅行代に含まれていますが)メニュー載せておきますね
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(クリックすると大きい画像が開きます)1TL トルコリラ=50円
ちなみに、アルコールは置いてありません
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さくらんぼか何かの甘いジュース飲んでます
トルコの人の悪口になりますが、世界三大料理 The Three Grand Cuisines のトルコ料理。今回のツアーで何食、食べたか分かりませんがドライブインで食べたトルコ風ピザ「ピデ」が一番おいしかった。
本当にトルコ料理がおいしくないか確かめに、もう一度、トルコに行ってもいいと思っています。その前に、日本でトルコ料理店探すけどね。

2013年10月16日

※不定期連載「心のコラム」
なにせよ、ムハマンドがアッラーからチャネリングで口承伝承されたクルアーン。内容は極めて簡潔で、知識のないものには簡潔すぎて理解できないということらしい。想像ですがアッラー曰く「お酒は飲み過ぎると酔っぱらって、絡むわ、セクハラするわで、終いには身上潰すので、程ほどにしとかなあかん」と言ったのではないか。それが巡り巡ってハディース・書物になった時に、簡単に「酒は飲んだらダメ」ってことになったのではなかろうか。” お酒 ”も創造主が作ったものだから、禁止するはずがない。
しかし、そろそろ地上に降臨していただいて、まずはテロ組織を破門してもらいたい。そしてお酒を解禁してください。

※追記
ドルマバフチェ宮殿
同じイスタンブルのボスポラス海峡に面した埋立地に建っている。1843年に着工され1856年に完成した。ヨーロッパから取り入れたバロック様式と伝統のオスマン様式を折衷した豪華な宮殿。
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1280px-Dolmabahce_Baccarat_bannister.JPG1280px-Ambassador_Hall_Dolmabahce_March_2008panoc.jpg* wiki より
竣工が比較的新しいのと、折衷様式ということで世界遺産にはなっていないのでしょうか。見学するには、こちらの方が面白いかも

スルタンアフメト・モスク Sultanahmet Camii イスタンブル [トルコ]

スルタンアフメト・モスク Sultanahmet Camii
オスマン帝国の第14代スルタン・アフメト1世(Ahmed I, 1590年 - 1617年)によって27歳の若さで亡くなるまでの在位14年の間、1609年から1616年の7年の歳月をかけて建造された。設計はメフメト・アー。「世界で最も美しいモスク」と評される。
世界で唯一優美な6本のミナレットと直径27.5mの大ドームをもち、内部は数万枚のイズニク製の青い装飾タイルやステンドグラスで彩られ、白地に青の色調の美しさからブルーモスクとも呼ばれる。wiki より
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中央の「ミフラーブ محراب‎ 」メッカの方角キブラ قبلة‎ を示す。礼拝前は思い思いくつろぐ人達。鮮やかな絨毯
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モスク内部を飾るモザイクタイルやステンドグラス
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ミナレットは、礼拝時刻の告知アザーンを行うのに使われる塔
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何してるか?足を洗っています
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なぜなら礼拝の際には、体の外気に触れている部分(手足、顔など)は必ず水か日光で消毒された砂で清めなければならない。日本の神社での手水舎に同じですね。異教徒は、靴を脱げばモスク内に入れます。

手ぶれが大きくて恐縮です。それだけ人が多いのです。信仰というものなのです。

Copyright 2015 長男は荷物


2013年10月16日

”7世紀のアラビア半島を起点として、短期間に広大な地域に拡がったイスラーム文化。灼熱の砂漠など厳しい風土の中で生き抜くために、人々がよりどころとした神への信仰の気持ちから、「装飾する魂」が萌芽し、幾何学模様を極めた装飾の宇宙を、礼拝の場であるモスクなどの宗教施設や王侯貴族の居館に展開した。最も長い歴史を持つイスラーム文化圏では、今も往時のタイルが残り、タイル装飾の技術と細工の極致に、来訪者の驚きと感嘆が絶えない。” と、某上場企業のホームページにイスラム美術について書いてあったのでコピペしましたが、間違っちゃ無いと思うけど内容が無いよ LIXIL。

イスラムに限らず宗教美術は単に鑑賞用ではありません。
アラベスク(arabesque)は、モスクの壁面装飾に通常見られるイスラム美術の一様式で、幾何学的文様(しばしば植物や動物の形をもととする)を反復して作られている。アラベスクとは、アラビア風という意味らしい。
まず、イスラム美術について。偶像崇拝を禁止しているイスラムで、肖像画は有り得ない。では風景画は?周囲は砂漠。というわけで、持論になりますが、イスラム世界では絵画が流行らなかった。兄貴分にあたるユダヤ経も、偶像否定、すなわち出エジプト記にもとづく、神を表現することの禁止した。創造主を絵にすることは恐れ多い。そもそも、見たことが無いし。せいぜい描かれるのは“よき羊飼い”の絵。
Good_shepherd_01_small.jpg”よき羊飼い” ローマ プリシッラのカタコンベ(3世紀後半)wiki
しかしキリスト教では、キリストが神のみ子(=イエス キリスト)を人の姿で現れた。つまり、創造主がキリスト、つまり人の形として、出現したため、その姿を模して絵画、彫刻、その他で表現することが可能になった。キリストの生涯における重要な事蹟の表現は、そのメッセージを伝える上で重要となった。
Agape_feast_04.jpg晩餐の図 ローマ サン・カリストのカタコンベ(3世紀前半)wiki
端折ったので解釈が間違っているかも。とりあえず、すまん。さて
横道に外れました。
モスクをタイルが飾るようになったのは、14世紀に入って、青や赤、黄、緑、白といった色彩の彩釉タイルが各地で大量に生産されるようになったからだそうです。前述の通り、偶像崇拝を禁止しているイスラムでは、神の似姿の表現を冒涜として禁じた、代わりに神の「みわざ」をこの世で表現するものとして、精妙な幾何学模様、狭義には植物紋様を、広義には動植物紋様、幾何学紋様、文字装飾を組み合わせて作る装飾技法作りした。平面をシンメトリカルに分割し、複雑に織りなすデザインの繰り返しによって無限に広がる性質を持っているものが多い。無限を作り出すことで、万物のゆるぎない概念を意味するいったところでしょう。よってタイルの描かれる文様は複数でセットとなり、繰り返し用いることで建物全体を残すところなくタイルで埋め尽くす。したがって余白が残されることは忌避される。
Imamsquare2.JPGImam Mosque Isfahan(1629年)wiki
こうして鮮やかなタイルによる幾何学模様がイスラム美術の象徴ともいえるものになった。荘厳なモスクを作ることは、イスラム教の五行の一つで、義務的な喜捨ザカートにも適うしね。

余談です。2月14日ですから
ローマ時代には士気が下がるからと兵士たちの結婚を禁止されていたが、司祭ヴァレンタインはこの禁令に背いて恋人たちの結婚式を執り行ったために捕らえられ処刑される運命にあった。その監獄の中、目が見えない看守の娘がいた。監獄の彼を訪れては説教を聴くうち、娘はヴァレンタインに恋した。その深い愛で奇跡が起こったのか、娘は目が見えるようになったが、2月14日ヴァレンタインは処刑されてしまった。ヴァレンタインがこの娘に宛てた手紙には「あなたのヴァレンタインより」と書いてあった

バレンタインの奇跡が語るように、目で見えている光景が事象の全てでは無いと思います
宗教についてもテレビで映っていることが、決してその宗教全てではないと分かっているのですが

そうそう、お母さんからもらったチョコレートはもらった数に入れてはいけません

アヤソフィア Ayasofya アギア・ソフィア大聖堂 イスタンブル [トルコ]

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イスタンブルにある博物館。世界遺産
537年12月27日、ユスティニアヌス帝を迎え、総主教メナスによる献堂式を迎えた。ただし、その後、崩壊、焼失を繰り返し、アヤソフィア大聖堂としては994年5月13日に完成した。東ローマ帝国時代に正統派キリスト教の大聖堂としての建設を起源とし、帝国第一の格式を誇る教会、コンスタンティノープル総主教座の所在地であったが、1204年から1261年まではラテン帝国支配下においてローマ・カトリックの教徒大聖堂とされていた。
1453年オスマン帝国メフメト2世はコンスタンティノープルをイスラムの勢力下に収めるため包囲し、モスクへ転用。 アヤソフィア内部は十字架が取り外され、マッカ(メッカ)の方向を示すくぼみであるミフラーブが加えられたが、 内部の改修は必要最低限にとどめられた。その後、4本のミナレットが建設され、南には帝国王室の墓所に使われた。1481年までに、南西の階段塔の上にミナレットが建設された。
オスマン帝国の滅亡から1934年、アヤソフィア・ジャミィは世俗化され、翌年に博物館として公開した。

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何故、この地域にアヤソフィアやスルタンアフメト・モスクなどのモスクがポコポコあるか理由は分かりません。ただ、イスラム教の五行の一つで、困窮者を助けるための義務的な喜捨ザカートによって、各街区には君主や大臣などの有力者が設立したモスクが造られた。その中の一つが、スルタンアフメト・モスク(Sultanahmet Camii)

とにかく、すごい人
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イスタンブルの歴史は一般的に紀元前660年頃から入植が始まり、現在に至っている。かつてはコンスタンティノープルとしてビザンティン帝国や東ローマ帝国、ラテン帝国の首都であって、1453年にイスタンブルとしてオスマン帝国の首都となった(トルコ共和国の首都はアンカラ)。地勢的にヨーロッパとアジアを隔てるボスポラス海峡があり、また同海峡は黒海と地中海を結ぶ海上交通の要衝。

Ayasofya-Innenansicht.jpg内部 wiki より

2013年10月16日

モスク建築、回廊に囲まれた四角形の広い中庭と礼拝堂を持つ形が基本形である。世界宗教の末弟であるイスラム教の礼拝堂であるモスクも、キリスト教の教会の構造を取り入れた多柱式が主流であったが、オスマン帝国に至ってビザンツ帝国の教会建築を取り入れ、ドームで支えることで柱のない広大な礼拝堂空間をもつ形式を生み出した。ドームは、アーチの頂部を中心として水平に回転させた形状をしている。構造的にもアーチと類似しており、自重やその他の荷重をドームの面内に沿って下部に伝えるため、面外に屋根を支える支柱や壁が不要である場合が多い。このため、大空間を覆う屋根として適しており、かつ、構造上、高さが必要で荘厳な空間が形成されることから、宗教建築に多く用いられてきた。たくさん人を収容してお祈りができる。ドーム建築は、元々はオリンポスの神々のための神殿建築だったのです。
このブログ・旅行記がイタリア編にたどり着いたら、フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂、ローマのパンテノン、サン・ピエトロ大聖堂を紹介しますね。

トルコを離れるにあたって、イスラム教について考えたい、理解したい、理解することで世界平和が叶うなら。
その前に、なぜ日本で一神教が生まれなかったのか、または一神教が伝播、拡大しなかったか?仏教は仏陀を信仰する一神教では無く、仏陀の教えを信仰するもので、他の世界宗教に見られる信仰対象・神や霊的な存在と信者が守るべき戒律を保つために特別な契約を結び絶邸服従するという考え方では無い。また、6世紀に日本に仏教が伝わった時の権力、つまり朝廷内で、仏教に願をかけたら叶ったので仏教OKということらしい。
1280px-Horyu-ji08s3200.jpg世界最古の木造建築。恐るべし日本仏教
重要なのは地勢的に、日本が島国でかつ気候が温暖であり農耕が発達したため、食料をめぐる争いが起こらなかった。耕作地や農民に付随する陣地争いが無かったわけでは無いが、せいぜい隣の畑を獲ってやろう。もちろん応仁の乱から始まった戦国時代という暗黒時代があったことは確かだが、数%の戦死者が出たら勝敗が決するといったものだった。農民が兵士として戦に駆り出されることがあった、戦はもっぱら農閑期に行われた。飢饉、疫病が起こったこともあった、しかしそれが日本全土を覆う戦乱にはならなかった。日本帝国となって食料や労働力を求めて外洋に出る必要は無かった。日本では農耕が始まってから(多分そのころ大陸から切り離されたのではないかな)、明治に入るまで緩やかな平和が続いていた。
島国ではないが、大きな人口をかかえる東南アジアに一神教の勢力が及んでいないのは、同じように食糧事情があるのではないかな。
宗教は排他的ではあるが利己的では無い、極端な話、王はいらない。王がいれば領土を拡大できるが、拡大した領土、つまり社会を維持するため人々は利他的であるべきで、人々を結びつけるために強い宗教が必然的に求められたのではないだろうか。
キリスト教も地続きのヨーロッパにおいて、先の理由によって拡大した。中世においては堕落し、近世において欧州列強がキリスト教の元、アメリカ大陸やアジアを植民地化していった時代もあった。植民地化とは民族の虐殺、大量殺戮もやってのけた。
Franciscus_de_Xabier.jpg鉄砲も持ってきた
しかし、キリスト教では宗教改革が幾度と起こる。これも、こっち側が、あっち側を破門するから、あっちから破門された、といったところではないかな(間違っていたら、ごめん)。そもそも、キリスト教には、何度かあった社会環境や世界情勢の変化にその都度対応していったということだろうし、キリスト教には対応する余地があった(哲学とか疫病など、長くなるので割愛)。宗教改革には、王侯から農民までを巻き込む一大ムーブメントであって、やがて近代ヨーロッパのヒューマニズム興隆や政教分離へと繋がることになる。
他に世界宗教としてヒンドゥー教がありますが、更にもってこれに詳しくは知りません。
shiva2.jpgこの表情で破壊神
土着の神々や崇拝様式を吸収しながら徐々に形成されてきた多神教だそうだ。経典は、おおまか仏教みたいなものだろう。ただし、カーストという私が忌み嫌う身分制度がある。ヒンドゥー教に改宗すると、カーストの最下位からスタートするそうだ。そんな宗教に誰が入るか。
さて、イスラム教です。前述の通り、日本の島国根性からは理解できそうにない。仏教もキリスト教も、あくまでも伝道ですが、
gokuu.jpgこのキャラも初出は仏教
対してイスラムは「剣」か「コーラン」(本当は人頭税など、「剣=死」以外にも選択肢はある)、そして離教は死罪・認めない(ヒンドゥー教も親から受け継がれる絶対的な教義で、カーストが廃れない根源だ)。こうしたイスラム教の峻厳・教条的側面のみが強調され、イスラムへの偏った見方が現在においては大多数だ。しかし、信徒は11とも16億人ともいわれている。私にはまだ見えていない、それ相応の”教え”があるのだろう

自己が異質な他者の中でいったん自己を見失い、その他者と和解しあうことによってより大きな自己へと生成し、究極的に絶対知へ至る。ヘーゲル(1770年8月27日 - 1831年11月14日)ドイツ人哲学者

ガラタ塔 Galata Kulesi イスタンブル [トルコ]

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イスタンブルのカラキョイ地区にある石造りの塔。9階立てで、高さは66.9メートル。塔を登るはエレベーター
ビザンチン帝国時代の528年、アナスタシウス帝が灯台として建設させたのがその始まり。1204年に第4次十字軍遠征で一度破壊されたが、1348年にはジェノヴァ人が後に残ったがれきを利用して再び建設された。
通りを登っていくと
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ガラタ塔に到着
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中にはエレベーターがあり昇ります。ははは、人がゴミのようだ。展望台も人ごみでいっぱい
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展望台の中はこんな感じ。調べたら、ナイトラウンジがあって、ごはん食べたりベリーダンスが見られるそうだ。
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Atatürk Köprüsü 447mと斜張橋のHaliç Metro Köprüsü 936m
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ガラタ橋Galata Köprüsü 490m 渡った左にトプカプ宮殿、奥にアヤソフィア、更に奥にスルタンアフメトモスク
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ガラタ塔には、戦時(昔)ともなれば金角湾への侵入を防ぐ鉄鎖が据えられていたそうだ。ガラタ橋が490mだから、それより長い大鎖があったのだろう。
無邪気な子供たち
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囲まれて、集団スリかと思った。「チェキ、チェキ」(写真)と、まとわりつく。まとわりつくんじゃない!お子様(ガキ)嫌い。Facebook アカウントを渡した。退会してしまったけどね。

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2013年10月16日

以上で、ドバイ・トルコの駆け足の観光は終わりです。イスラムの祝日と重なって、イスタンブルはどこも渋滞。この後、急いでイスタンブル空港に向かいます。まだ、続く

さて
ガラタ塔付近には公営風俗があるとか、無いとか。
1本路地を入るとこんな感じらしい
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何故、イスラムで風俗営業ができるのか?ヒヤルという合法の抜け道がある。ヒヤル(حيل ḥiyal)とは、アラビア語で奸計、潜脱を意味する。イスラム法に照らして合法(適法)的な行為を複数組み合わせて、本来はシャリーアにおいては非合法(非適法)な結果を達成する行為。まず「アラーを唯一の神と信じるか」で改宗し、妻の経済的な権利を要求しないこと、夫と同居しないことなど多くの義務と権利を放棄するミシャー婚をする。その後。離婚届けにサインして夫婦関係を解消する。イスラムでは離婚と再婚を規制していないから・・・だそうだ
アッラーは寛大だな

できればクルドについて書きたかったのですが、民族・政治・宗教には触れない腰抜けブログですから
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これを笑う人を私は許さない




アタテュルク国際空港 İstanbul Atatürk Havalimanı さようならイスタンブル [トルコ]

アタテュルク国際空港。トルコ建国の父、ムスタファ・ケマル・アタテュルクから名づけられている。イスタンブルのヨーロッパ側(トラキア)にあり、市街地中心部から南西に約15km離れている。
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押せ押せのスケジュールで、ガラタ塔からガラタ橋を渡り空港までの20km を20分で走ってきました。
チェックインします
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本当に申し訳ない、トルコ人ガイドさんの名前を失念してしまいました。終始、丁寧に案内してくれました。当時で日本のお客さんが減ってると言っていましたが、今を思うとさらに切ない
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7日間、ありがとうTeşekkür ederim(テシェクルデルン)、そして、さようならHos cakalin(ホシュチャカルン)

空港構内
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VAKKO ワッコ でお買い物
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VAKKO はトルコのファッション企業、国の主要なファッションハウスの一つ。
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いいのかイスラムで、このようなポスター。それほどトルコが政教分離を国是として力を入れていることだと思う。
Şen Şapka で1936年に創業した小さな帽子店にさかのぼり、トルコの絹、綿、ウールでスカーフの生産を開始しましたそうな。現在は服飾も手掛ける。トルコ一番の高級ブランド
さて、なぜにスカーフかというとヒジャブ حجاب 。イスラムの女性の頭と体を覆う布を意味するが、アラビア語においては頭に被るベールといった意味の他に、貞淑・道徳といった意味も持つ。
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↑ これね。政教分離を掲げる国では、公の場所での着用が禁止されていたり、最近フランスでは「宗教的シンボル」として着用の可否が問題になりました。トルコでは基本着用禁止らしいが、田舎に行くと着用率高いです。いずれにせよ、時と場所をわきまえた服装が世界共通のマナーだと思います。日本が悪い意味で一番フリーダムかも。
もちろん、ヒジャブとしてでなく、おしゃれアイテムとして数枚買いましたが、けっこういい値段になりました。世界で何らかの無駄遣いをしないと気が済まないのは性格ですから、思い出ですから。
大判で一番高かったのが152ユーロ、同じサイズでシンプルなのは125ユーロ、小さいのが44ユーロ
ちなみに、トルコで一番物価が高いのは、ここ「アタテュルク国際空港」。物価が安いトルコですが、建国の父の空港は関係なし。

エミレーツラウンジ
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アルコールが置いてあります
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ここでようやくトルコの有名なワインKavaklidereの白が飲めた
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ワインはトルコは発祥の地として推定される国のひとつ。B.C.4000年頃。

VAKKO のアパレルとか、トルコワインが買えなかったのが心残り。ラウンジから抜栓していないのを勝手に持ってくればよかったと、今思う。
また来ます、イスタンブル。本当においしいのか、まずいのかトルコ料理を確かめに。それと、ヨーロッパとアジアの接点というカオスの雰囲気を感じたい。時勢が許せば

ボーディングタイム エミレーツEK122 ドバイ行き 19:25
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さようならイスタンブル、さようならトルコ
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2013年10月16日

次はドバイでトランジットゥ!