SSブログ

幸せって何? 記事第500号 [お話]

freedom.jpg

豊かさとは、選択肢の多さだ。問題は、どれを選択するか。
                             ーby 私ー

選択肢の多い人生、何とワンダホー!リスキー最高!
選択肢を享受するには自由が担保されなければならない。ただし死は選択肢ではない。自殺は絶対、選択ではありません。自己犠牲とか、安楽死とか、中絶とか考えるに足を踏み入れたくないので省きます。ごめんなさい。
さて、選択は一見、理知的な行動と思われるかもしれませんが、実際は動物の本能として備わっているものらしい。例えば、強者に食べられようとしているとき、生きるために逃げるか息を潜めて隠れるか。食べられてしまう状況を自分でコントロールしたいという欲求が、それ自体が、選択の強力な動機となりうる。不都合を招くことがわかっていても、その衝動に突き動かされてしまう。選択できない状態が、本質的に不快で、ストレスを引き起こす。なぜなら、強迫下に置かれると、身体が差し迫った危機に対応できるように、闘争的な反応、もしくは逃走的な反応を起こす(ダジャレではない)。消化や免疫システムの維持などの身体過程に費やされるエネルギーが一時的に減少し、とっさの行動に使えるエネルギーの量が増える。瞳孔が拡張し、反射が速くなり、集中力が高まる。アドレナリンの大放出。体が正常機能を再開するには、危機が過ぎ去ってからだ。このような本能的な反応は、自分が生存のチャンスを高めるからだ。
以上が、獣でさえ選択という行動を取るという理由、無意識下で起こるので仮定みたいなものです。
もちろん人であれば、狩猟、農耕、家族、村、民族、国・・・と文明のレベルが上がるにつれ、その時々で、選択しなければならないことが、増えていきます。異性にもてるにはとか、給料をたくさんもらうには、など。
少し話が飛びます。
私は、自由に生きています。そう決めました、直感で生きていくと。作り笑いはしない、おべっかは使わない、オチの無い話には面白くないと言う。誤解のないように追記すると、直感で生きるのと無謀とは違います。
さて、自由とは何か?自由とは選択する権利、つまり自分のためにの選択肢を作り出す権利のことだ。
食うか食われるかは極端ですが、例えば面倒な仕事をかかえてストレス源がいつまでもなくならないとき、身体が消耗するまでストレス反応は続く。持続的な厳戒状態は、身体面では自己免疫システムの弱体化を起こす。心臓障害まで誘発する。また精神面では反復性の、場合によっては自己破壊的な行動を引き起こしかねない。これは常同症と呼ばれる。快適に作られ、外敵がいない、エサは必ず確保できるはずの動物園の「豹」が、ずっと1日中、小さな環を何度となくなぞって歩く様子は、まるで円心をまわる儀式めいた舞踏に、すさまじい意思が封印されている(出典:詩「豹」ライナー・マリア・リルケ)。これが常同症です。豹には、動物園に自分が置かれている状況が安全であるということが理解できないばかりではなく、野生としての本能「狩る」ことを抑えつけられている。自然の中では突然訪れるかもしれない脅威からくる恐怖と絶えず闘い、格子越しに見えるおいしそうな動物、つまり我々見学者との間には深い堀があるのだ。
常同症は人にも当てはまります。自己決定権を失った者にとって、この喪失の痛みの先には、何も存在しないように思われるのだ。「無」しかない。この自由の喪失の痛みに私は耐えられない。肉体的にも精神衛生上にも悪いから。
だらだらと「選択」について書いてきました。自由意思での選択は幸福をもたらします。自己決定権での選択は自由の表れであるから。我々は「豹」ではありません。自分が経験してきたこと、学習してきたことから選択肢を生み出し、より良い方向に向かうことができるかもしれない。つまり苦難に面した時に、選択肢が多ければ、そのストレスから脱出する最善の方法が見つかるかもしれない。
ストレスばかりではありません、物質的な豊かさも。人類は、文明によって、多種多様な物を手に入れてきました。多勢の方は、物質的な豊かさは幸せなのか?と仰ると思います、その通り、物質的な豊かさが幸せではありません、お金で何でも買える訳ではない、のび太が幸せなのはドラえもんのポケットではなくてドラえもんの存在だからです。でも、お金があるに越したことが無いことは、どなたもご存知でしょう。
だから、人それぞれに幸福があり、選択があり、その選択は決して人から与えられるののではなく、自分で決めるもの。
人は利己的な生き物ですから、人よりいいかっこうをしたい、自分が優れていると自慢したい。都市で暮らすのも、ロハスに暮らすのも。身を削ってお金儲けをするのも、暖かい家庭を作るのも、究極は仙人になるのも。
目の前に、自分で選ぶ道が何本もあることが、豊かさだと私は思います。

ただし、人は環境によって価値観が変わるように、選択肢が変化します、その結果、選択肢は新たに創造されます。何が選択肢を変えるのか、つまり本当の幸福とは、知恵が浮かんだら、後日にでも考察してみたいと思っています。その結果、本当に選択肢の多さは幸せになるのか、についても。えらく風呂敷を広げてしまいました。

『七十にして心の欲する所に従へども、矩を踰えず』論語ですね。かの孔子といえども、ようやく70歳になって選択を誤らないようになったと言っています。選択を極めるには、何が必要なのでしょうか。

死んだ方がマシ、という選択は死んでもして欲しくない。

これを持ってキリ番500の記事とさせていただきます。これからもご拝読お読みくださいますよう、よろしくお願い申し上げます。

nice!(0)  コメント(3)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 3

Ryra

キリバン500に選択肢 難しい選択にせまられていますか?

トルコの一文だったと思う
行きたいところに行けるのではなく行かされるのだと
選択肢というのも同じで
どんなに慎重に選んだとしても
実は選んでいるつもりで選ばされているのかもしれない
心のままに進めば良い





by Ryra (2014-06-21 15:13) 

I Had A Good Time

文才が無いものですから、ダラダラと長く、前後したりする文章で、さぞ読みにくいかと思います。
「選択肢」を「実現できる可能性」と読み替えていただいたりすれば、私の思っていることを分かっていただけるかもしれません。
例え話で説明しますね。お腹がすいたので買い物に行きます。免許も持ってるし車は新車だ、たまには自転車に乗るかな、私は健康だ歩くのも悪くない、幸運にも天気もいい、私は料理ができるからそもそも買い物に行く必要もない、今日はゆっくり過ごそう、時間はたっぷりある。
真逆。私は奴隷だ、外には出られない、食事は日に1回、これを食べないと死んでしまうかもしれない。
選択肢を羅列してみました。親の言いつけを守り、長老の語りを聞き、村の風習に従い、宗教の規律に準じ、また教育を受け、知識を蓄え、技能を身に着け、労働の対価として金銭を知り、それで個人として自立する。最後にたっぷりの時間と書きましたが、今をまじめに生きている人には時間の使い方でさえ選択肢となり得るのかもしれない。
選ぶことの自由の範囲が大きければ、つまり選択肢が多ければ、人は幸せではないかと思います。沢山の可能性を持っておけば幸せになれると。
1つ分からないことがあります。自由の元、多くの選択肢の中から最良と思う道を選び、人にも信望され国の指導者にまでなることができた場合のこと。全ての人とは言いませんが、普通に描く夢でしょう。首長であるから権力さえ手にあります、世界の経済を動かせます。しかし彼には核のボタンを押すという責務がくるかもしれません。この核のボタンを押す押さない選択は、奴隷が食事をしなければ死んでしまうと同じ選択に思えます。私の仮定がここで崩れます。、このような状況を招いたのは、選択肢の多さからどこかで間違った選択をしてしまったのか?その原因は親の言いつけ?教育?選択肢の源流に戻れば回避できるのでしょうか?運が悪い?いずれにせよ、その首長は幸せでは無いことは確かです。
次に書こうと思っていたテーマにまで行ってしまいました。
トルコのことは、ごはんが不味い、お酒が自由に飲めない、朝が辛いなど楽しくないとぶーぶー言いましたが、旅に出たら、何らか得るものがあるのではないかな、と思ったからです。ということは無駄な選択肢は存在しないということになります。
もう、何が何やら
by I Had A Good Time (2014-06-21 23:20) 

Ryra

核のボタンを押す人が幸せではないと思えるのは あなたがやさしい人だからです。
私は 選択肢が多いことより 選択したことを後悔しないことのほうが大事だと思います。
幸せはいつも自分の中にあります。

いつだって自分の中で答えを持ってるけど
いろんな事情でそうできないこともある
やりたいことを やる
好きなことを 好きというのは むずかしい?
時々現実を超えてみたくなる


by Ryra (2014-06-24 16:50) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

Chromecast山行だって ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。